クリント・イーストウッドの新作ということで前から気になっており、ようやく昨日観に行くことに。
色々と書きたいことはあるといえばあるし、ないといえばない。
圧倒的な戦闘描写の迫力と登場人物が発する言葉の重み。
そのどれもが実際の経験を元にして描かれたものだけに、スクリーンを通してただ眺め見る私のような異国の一般市民が、あれやこれやと口をはさむことで映画の説明になるとは到底思えない。
そんな中であえて感じたことを、そのまま言葉に出してみると、
「主人公カイルを始めとする、イラク戦争で散っていった名も知れぬ兵士たち、さらに敵味方を問わない犠牲者への鎮魂歌」
というのが、この映画を製作したイーストウッドの意図ではないかと思う。
いきなりネタバレになってしまうが、映画の最後、出演者やスタッフのエンドロールが最後まで無音で終始したということが、なによりの表れだと思う。
感動的であったり、悲しげであるような修飾は必要ない。
ただただ、この戦争に関係した全ての者に哀悼の意を捧げる。
それが監督の伝えたかったことだろう。
イーストウッド監督はこれまで結構メッセージ色の強い作品を多く世に送り出してききた。そのどれもが社会的に影響のある問題を取り扱ってきていると思うし、さらにそのどれもが単に社会派というだけでなく、娯楽作品として鑑賞に充分堪えうる映像を取り入れてきていることが、彼が生粋の映画人であることを示しているとも感じてきた。
そんな彼が今回の映画で伝えたかったことが、単にありきたりな「反戦」とか「兵士を称える」ような内容であるはずはなく、だからこそこの「アメリカン・スナイパー」のエンドロールに映画の内容そのものを越えて、より鮮烈な衝撃を感じたということを最初に伝えさせてもらおうと思う。
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苦悩の始まり
序盤の描写は、いきなり主人公カイルが、イラクの戦場、ビルの屋上から狙撃中のスコープで的を絞るシーンから始まる。
そしてそのスコープに映し出される男の姿。
さらに下を見れば、展開中の仲間の海兵隊。
と、突然、男の姿は消え、慌ててカイルのスコープは男がいたはずの建物の下を映す。
そこには入り口から出てきた女と少年の姿があった。
「女と子供です。部隊に向かって歩いている。何か爆弾のようなものをもっています。どうしますか?」
スコープを眺めながらカイルは無線で上官に伝えた。
「判断に任せる」
冷徹な返答。いやそれはむしろ、狙撃手への信頼に満ちた回答なのかもしれない。
「・・・・・」
スコープから目を離すことなく、カイルはじっと標的である女と少年を見つめた。
どうみても海兵隊にテロ攻撃を仕掛ける様子がありありと見て取れる。
当然射殺すべきだろう。
しかし少年の姿がカイルの心に迷いを感じさせる。
そして・・・・・
画面はカイルの子供の頃の回想に移った。
厳しい父親の元で男としての矜持や誇りを叩き込まれて育った少年時代。
弟は常にカイルの庇護の対象であり、カイルも身体を張って弟を守ってきた。
成人し、牧場で働きながら、ロデオ三昧の日々。
楽しくも何か目的を失ったような空しさがつきまとう日々の中、ついに彼は出会う。
1999年に起きたアメリカへのテロ攻撃。
そのときはじめて、カイルの胸に「祖国を守るために何かしたい」という具体的な感情が芽生えた。
新兵徴募所に行き、海軍精鋭であるシールズへの応募を決心するカイル。
厳しい訓練を経て男の中の男に至る過程と描写は、以前に見た「ローン・サバイバー」でもお馴染みだった。
⇒レッド・ウィング作戦を描いた実話映画「ローン・サバイバー」で泣いた!
再び戦場へ。
目の前には相変わらず女と子供の姿があった。
カイルは決めた。
「部隊を守るために」
カイルは決断し、引き金を絞った・・・・
伝説の狙撃手として
仲間の一人に元牧師だった男がいる。
カイルが「なぜ牧師を辞めてこんなところまで来たんだ?」と訊ねると、
「賭け事が好きでさぁ!」
と言い、二人は大笑いした。
しかしその彼が「俺たちのやってることは正しいのか?」と疑問を投げかけ、それにカイルが、
「もちろんだ。祖国を守るため、神も俺たちを守ってくれている」
と即答した。
しかし仲間は笑わずに、こういった。
「ガキの頃ふざけて電気柵にぶら下がったことがあった。けど体中に電流が流れた瞬間、神様のことなんか頭からすっかりぶっ飛んじまったんだ。今の感覚はそれに似てるんだよ」
任務を遂行するうちに、いつしか伝説の狙撃手として名を上げていったカイル。
その任務には女子供の命を奪うこともあった。
それをスコープ越しに目にする、たとえようのない「現実の重み」。
それは仲間の言った「神の存在すらもかき消してしまうほどの衝撃と破壊力」を持っているというのだろうか。
この仲間の言葉が映画を見ている間、終始、私の頭にこびりついていた。
この後もイラクでの過酷な任務は続くのだが、愛国心と仲間を守るために、カイルは4度に渡る戦地行きを経る。
任務を終えて帰国した時、そこで運命の女性と出会い、結婚。
もちろんハネムーンに行く暇もなく、すぐさま任務に戻る日々。
子供と顔を会わす暇もないまま、数度に渡って中東の地を踏む。
いつしか彼の心身は戦場での過酷な日々に蝕まれ、帰国した安らかな時間でも、常に何かに神経を研ぎ澄ましているような精神状態が続くのだった。
「任務は今回で辞めて、今すぐ皆で暮らしましょう」
そう必死で懇願する妻を優しく抱き寄せながらも、カイルはやはり仲間のために戦地に旅立つ。
ライバルともいえる敵狙撃手との攻防、再び訪れた子供への狙撃の魔手、任務に倒れ、傷ついた仲間の死を見送ること・・・
気が付けば、カイル自身もPTSD(心的外傷後ストレス障害)を病んでいた。
戦地で最大の激戦を経て、ようやく2009年にカイルは除隊した。
帰国後は妻の勧めで治療を受け、そこで紹介された傷病兵を手助けするボアンティアに参加する。
そして2013年。
同じくPTSDを発症した元海兵隊員エディ・ルースに射殺され、カイルはこの世を去った。
39歳だった。
そしてエンドロールへ・・
劇中では、カイルが射殺されるシーンは描かれることはなく、家を訪れた犯人と、外に出て犯人と話し込むカイルの姿が、閉じゆく扉の内側からカイルの妻が見つめる情景で終わっている。
この描写はまだカイルの子供が幼いことから、その気持ちを尊重したと述べられている。
映画の最後は、彼の棺を見送る参列者の列が道路脇に延々と続き、途中の橋からは大きなアメリカ国旗が掲げられる当時の実際の映像が、映画の終盤で映し出された。
淡々と音もなくただスタッフロールが続くスクリーンに、無音ゆえに様々なことを考える時間が与えられたように感じた。
スナイパーとは常に孤独で決断を委ねられる、ある意味過酷な任務。
共に戦う仲間もなく、ただ一人、遠くの部屋から仲間とその周辺をスコープから見つめ、時には狙撃する役割。
誰を撃つか、撃たないか、それすらも狙撃手本人に委ねられている、いわば一人軍隊だ。
このような孤独な任務は、本来カイルのような陽気で正義感の強い男は向かなかったのではないだろうか?
だから任務の途中にも関わらず、海兵隊の連中に混ざって作戦行動を共にしたのではないか。
実際にはあまりにも海兵隊の戦術が稚拙なので、見るに見かねてカイルが手助けをしたようだが、その後、彼らに手取り足取り戦術や動きのあれこれを教えているのを見ると、本来は体全体で高揚感を得たいタイプの男だったのだろう。
そんな前線向きの陽気だった彼が、最も孤独で精神的負荷の大きい狙撃手の任務で「伝説」とまで言われるようになったのは、なんだかとても皮肉なように思う。
一説によれば、作中で描かれているような子供や女性の射殺や、テロリストとの攻防は架空のものだとする批判もある。
実際のところはどうなのか、門外漢の私には分からない。
ただ、何が起きてもおかしくない戦場では、それに近い状況はきっと無数にあったに違いないとは思う。
そしてそうでないにしても、人を殺すという行為そのもの自体が、本来の人間性に反するものだから。
たとえ子供や女性相手でなく、正真正銘の敵だったとしても、いずれは重ねるうちに心の歪みが起きる。
イーストウッド監督はその歪みこそ、戦争に関わった者たちへの鎮魂と併せ、この映画の主題として描きたかったのではないだろうか?
この映画に限らず、アメリカ映画の戦争ものには、常に「愛国心」や「仲間のために」という言葉が使われる。
これは殺人による罪悪感から、人間である兵士の心を守る防御壁であるように思う。
それが良いか悪いのかは、私には何とも言えない。
なぜなら、この世にはやっぱり純粋な悪というのは存在するし、人の心のうちにある悪の心を育てさせないためにも、悪を打ち砕くハンマーはやはり必要だとも思うからだ。
一方でいつの日か、人の心に本当の意味での平和が訪れることを、心のどこかで信じる自分もいる。
最後に
主人公を演じたブラッドリー・クーパーは、原作の映画化権を買って自らプロデューサーになり、クリント・イーストウッドを監督に迎えるなど、映画製作にかける情熱は相当なものだったという。
俳優としても、細身だった体をトレ―二ングで見事ビルトアップさせたり、微妙な表情の変化を見事にこなすなど、不慮の死を遂げた英雄の半生を想像以上に熱く演じている。
リーアム・ニーソンが隊長役の特攻野郎Aチームのリバイバル版で、女たらしのメンバーを演じてたのが、この人を見た初めてだったけど、ああいうニヤけた印象が強かったので、本作での悩める男の内面に迫る演技は寝耳に水だった。
ブラッド・ピットやジョージ・クルー二ーのような、主演・製作を両方こなす大物男前ムービーメイカーとして、今後も熱い社会派作品を扱っていって欲しいと思う。