予告編で見て以来、これは見ないといけないなと思っていた映画だった。
若年性アルツハイマー病にかかってしまった言語学者の物語。
幸い身近にこの病気にかかっている人はいないのだけど、いつ誰がなるのか分からないものだし、自分がそうなってしまうのもしれない可能性はいつだってある。
だから、この病について取り扱った映画が公開されると知って、必ず観に行こうと決めていたのだ。
そして実際に鑑賞して「見てよかった」と思った。
主演女優さんの熱演と、それを支えた俳優、女優さんの地味ながら心温まる演技が心に染みた。
病のことも今まで以上に知り得ることができた。
すべてのことは家族から始まり、家族に終わるということも・・・
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アルツハイマー病になったアリスとその家族の物語
アルツハイマーとは、記憶を失っていく認知症の一種であり(映画の中では「頭の良い人がかかりやすい」と説明されている)、言語を扱うプロフェッショナルだったアリスが、研究者の集まる学会で簡単な単語を思い出せなかったところから、症状の一歩は始まった。
最初は単なる物忘れだと自分も周りも思っていたが、ランニング中に自分のいる場所が認知できなくなったことをきっかけで、アリスは「これは違う」と感じ、専門医の診断を受けることを決めたのだ。
数度の診断を受ける間も、物忘れの度合いは進んでいき、アリスの不安はどんどん大きくなっていく・・・
夫と連れだって赴いた病院での診断の結果、アリスは若年性アルツハイマーと宣告され、家族に伝えることを余儀なくされる。
二人の娘と一人の息子、そして愛する医者の夫。
長女はすでに結婚していて、じきに双子を生む予定だった。
長男は将来有望な医学生。
離れて暮らす次女だけは、なかなか芽の出ない役者志望で、常にアリスの悩みの種だった。
そんな幸せ一杯の家族に、自分がアルツハイマーであることを伝えなければならない辛さ。
最も辛いのは、アリスの持つアルツハイマー疾患が遺伝性のもので、娘や息子たちにもその因子があるということ・・・
家族の驚きと悲しみは一様ではなく、とくに長女のショックは大変なものだった。
それは母親が不治の病にかかってしまったことへの哀しみと、もうすぐ生まれるであろう子供達へも遺伝するのではという恐怖にも似た感覚。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
アリスは何度も子供たちに謝った。
謝ることではないし、謝っても何も変わらないという現実が待っていても・・・
その日から、皆でアリスを陰に陽に支える日々が始まる。
夫は仕事のかたわら、できるだけアリスのそばに寄り添おうと、時間を作ってはともに過ごした。
長男や長女も頻繁に家を訊ね、アリスの様子を見に来てくれた。
離れて暮らしていた次女が、最も母親のことを心配し、パソコン会話だったり、たまに帰ってきたりと、気遣う様子を見せていた。
そんな中で、アリスの記憶は確実にしっかりと失われつつあった。
人や単語の名前だけでなく、物の場所や、自分が今しがた何をしていたかということ、どこに向かおうとしているのかということすら、思い出せなくなってきていた。
自分がまだ自分でいられるこの時。
アリスは心を決めて、パソコンの画面に向かって語り始める。
「こんにちは、未来の私。これから言うことをどうか真剣に聞いてほしい・・」
自身の誇りと尊厳を守るためだった。
そして時がたち、アリスの症状がさらに進み、つい先ほどのことも思い出せなくなっていたある日、アリスはふとパソコンでかつての自分の映像を見つける。
それは未来の私に向けたアリス自身の言葉。
アリスがアリスのままでいるために、かつての自分が残した最後のメッセージ。
アリスはそれを見て、かつての自分が指示したことを行った。
それは・・・
このくだりはネタバレになるので、書かない。
このシーンはかなり衝撃的で、ここで映画は終わりを迎えるのかと思ったほどだ。
けれど、アリスの人生はまだ終わらなかった。
この後も物語が続くし、本当のエンディングはもっとシンプルだ。
そこに至るまでの家族とのやりとりは、処置の施しようにない状態に陥った人に本当に必要なのは何か?ということを深く私に教えてくれたように思う。
映画の背景
各種レビューでは、この映画のアリスを演じたジュリアン・ムーアの演技力を絶賛しており、彼女はこの作品で自身のキャリア初のアカデミー賞を受賞したようだ。
【インタビュー】ジュリアン・ムーア、彼女のスピーチこそ「まさに『アリスのままで』」 | cinemacafe.net
実際に見ていて、これが演技だとは思えないほどのリアルさがあった。
かといってドキュメンタリーのような無味乾燥さはなく、ちゃんと映画としての表情の作り方も垣間見えたから、たぶん彼女の演技力だけではなくて、演出やプロットの綿密さが合わさった結果だったと思う。
なによりも、監督自身が難病の持ち主(筋萎縮性側索硬化症)であることが、作品における様々な描写の真実味をより確かなものにしたのだろうとも。
私自身の体験も多少は関係ある。
10年前に亡くなった祖母が、死去の一年前ほど前から痴呆状態に入っていて、映画のアリスのような症状をたびたび繰り返していた。
もちろん90を過ぎた人だったので、アルツハイマーとは全然関係ないといえばそうなのだが、作品のアリスの描写が晩年の祖母にかぶることもあって、見ながら心が痛んでしまった。
同時にアリスの内面や葛藤、病を得ても、なお失わなかった人としての愛情や思いやりを見ていると、「ああ、祖母もこういう気持ちだったのか・・・」と、改めて当時を思い出し、色んなことを考えてしまった。
とくに映画最後のアリスの次女への言葉、振る舞いは、ほとんど言葉の記憶を失ってしまったアリスの本質的な部分を表現したのだと思う。
生前の最後に祖母が見せた母への振る舞いと重なり合って、エンディングを迎えると同時に不覚ながら男泣きしてしまった。(もちろん忍びながら)
祖母の日常の世話は母が見ていて、実の親子だけに遠慮がない部分もあり、ときに大声で口ゲンカをする場面もたまに見ることもあった。
そんなときは大抵、祖母が痴呆に入った老人特有の妄想で母に何かを言うことが原因で、母は「違うって言うたやないの!何回言うたら分かるの!」と怒鳴るところから始まるのだ。
たまにそういう場面に出くわすと、私は「まあまあ」と止めに入る。
もうこれ以上、怒鳴っても仕方ないだろう、だってお婆ちゃんは痴呆状態なんだから・・・と諭すのが常だった。
だけど、母はため息をつきながら、
「分かってる、分かってるんやけど、なんか我慢できへんねん。だって、あんなにしっかりしてた人が、あんなに元気だった人が、なんでこんなことになるんやろうって、考えると、悔しくて悲しくてね・・」
と答えていた。
私はそのたびに黙って何も言えなくなってしまう。
戦前、戦後と、船員でほとんど家に帰ってこなかった祖父の代わりに、家を切り盛りしていた祖母。
たくましく戦後を生き抜いた祖母に育てられた母にとって、きっとあの頃のような元気な姿をいつまでも見ていたかったのだろう。
その祖母がなぜ・・・と思い、ついついキツく当たってしまう気持ちは、なんとなくではあるが、理解できる気がした。
映画の中では詳しく描かれてなかったが、変わりつつあるアリスを見て、家族のだれもが心のどこかで行き様のない怒りとか悔しさ、哀しさを感じていただろうし、それはきっと母が祖母に感じた感情と同じなのだろうなとも思った。
そんな祖母が亡くなる数日前、いつもどおり風呂場に介添えでついていき、体を拭こうとしたとき、祖母が急に黙って母の手を掴んだ。
「どないしたの、おばあさん?何かあるの?」
不思議に思った母が訊ねたが、祖母はただ黙って母の手をじっと掴んだままだった。
祖母はもうその頃は、心肺機能がかなり弱っていて、ほとんどまともに話が出来なくなっていた。
母の介添えがなければ、歩くことも、トイレに行く事すらできないくらい、衰弱していた。
母は声をかけるが、祖母はじっと母の目を見つめて手を握るだけだったという。
「あんなことしてきたの、あのときが初めてだった。今まで黙って私が体洗うの見てるだけやったからね。でも後で分かった。あれはあの人の別れの挨拶やったんやなって。目で”ありがとう”って言ってくれてたんと違うかな」
そう言って、母は目に涙を浮かべていた。
祖母はきっと伝えたかったに違いない。
母に「ありがとう」の気持ちを・・・
最後の別れの挨拶を・・・・
それから数日後、祖母は旅立っていった。
最後に
映画のラストは、次女がアリスに芝居の台本を読んで聞かせるところで終わる。
最後まで読んだとき、次女はアリスに訊ねた。
「お母さん、今のは何について読んでたと思う?」と。
するとアリスは次女の耳元で小さく言った。
「ラヴ(愛)」
アルツハイマーの病状が進み、もはや言語の記憶すら失ったアリスが伝えた言葉。
あらゆる記憶をなくし、家族の顔すら認識できない中で、彼女の中に残っていたぬくもりの記憶。
あのシーンを思い出すたびに、母と祖母の最後のやりとりを思い出してしまうのです。